読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

兼六園の呼称

最近、長山直治氏追悼集刊行委員会『加賀藩研究を切り拓くー長山直治氏追悼論集』桂書房、2016が上梓され、本康宏史「兼六園の呼称をめぐる若干の考察」が掲載され、新しい知見が論述されています。紹介しよう。
  先ず、「兼六園」の名の由来は奥州白河藩松平定信が、北宋の詩人李格非の『洛陽名園記』における「園甫の勝、よく兼ね能ざるもの六あり。宏大に務むれば幽遂少し、人力優れば蒼古少し、水泉多ければ眺望難し」から「兼六園」と命名し、扁額に揮毫したことになっていた訳です。ところが、松平定信は扁額を揮毫する時、「兼六というのはどういう由来なのか」と聞いたそうで、名付け親ではないとの事。それでは、名付け親はというと、京都の公家、斉広(12代藩主)夫人真龍院の実家である鷹司家の人物らしい。
  又、「兼六園」と命名された庭園は竹澤御殿に付随する「竹澤御庭」のことを指していた。「竹澤御庭」は霞ケ池から南側雁行橋の辺りです。
  更に、「蓮池庭」を含むエリアが一般に「兼六園」と呼ばれるようになったのは、明治期の庭園解放後である。「蓮池庭」は百閒堀に面した蓮池門の辺りです。
  竹澤御殿が撤去され、園池がほぼ今日見られるような形になったのは、天保八年(1837)頃、斉広没後ほどなくして、次代の斉泰(13藩主)が御殿を解体しつつ霞ケ池を拡張し、その掘り下げた土を盛って栄螺山を築いたあたりからである。
とのことです。